高原淳sogo-p写真的業務日誌:写真
2018-01-09T05:01:55+09:00
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「月刊しゅん」、「northern style スロウ」を発行するソーゴー印刷(株)社長・高原淳の写真的業務日誌
Excite Blog
ブログ12年
http://sogopt.exblog.jp/29180401/
2018-01-09T05:01:00+09:00
2018-01-09T05:01:55+09:00
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エキサイトブログに投稿するのは、たぶんこれが最後になるでしょう。もしかすると、2、3日ずれる可能性はありますが、今後は自社サイトの中でブログを書くことになります。書く内容も変わる可能性が大。どのように変わるのか? こればかりはやってみなければわかりません。
ここしばらく、1日2000字を目安にブログを書いてきました。これは僕にとって文章トレーニングといった意味合いがあるものの、読み手の方々にとってはちょっと迷惑だったかもしれません。もう少し、スリム化した文章をお届けできるようにしたいと思います。
毎日書く文章のテーマについても、もっと明確化を図ります。今までも「経営」「写真」「マーケティング」といった大まかなテーマはありました。けれども、曖昧模糊としたところから、何らかの結論に結びつけていく・・・という書き方が多かった。こうした書き方を毎日続けると、文章の質という点で、日によって当たり外れが生まれやすい。体調や心の状態が文章の質にストレートに反映されることになる。この点、僕としてはずっと気になっていたのです。
そんなわけで、リニューアル後は「実用的な文章」が増えていくことになると思います。文体も変わるに違いありません。もしかしたら、真面目すぎておもしろくなるかもしれません。「○○すぎておもしろい」という状態を目指します。ただ、自社サイト内のブログですから、できるだけ品を落とさないようにしようと、現時点では考えています(あくまでも現時点での話)。ある程度、慣らし運転を行ってから、適度に文体を緩くしていくことになるでしょう。
それにしても、エキサイトブログにはお世話になりました。書き始めたのは2006年1月21日。次に書いたのが24日。2006年1月24日以降は、社内で緊急事態が起こった2日間を除き、ずっと毎日書き続けてきました。もうすぐ丸12年を迎えます。ひとまわりした・・・。そんな実感が湧いてきました。
最初の頃のブログは今に比べるとずいぶん短い。このくらいの文章量でよいのかもしれません。2006年当時は、長く書こうと思っても書けなかった・・・というのが真相。僕はこの年からスロウの書き手の末席に座ることとなり、ブログを使って文章トレーニングを開始したのでした。
効果は自分でも驚くばかりでした。東京時代の文章力を取り戻しただけではありません。もっと重要なスキルを僕は手にすることとなりました。
それは「一見関係ないと思えるような情報や出来事が頭の中でつながるようになっていった」こと。大袈裟に言えば、僕の脳内でイノベーションが起こったのです。
それ以前の僕はどうだったのか? 情報と情報がつながっておらず、よくわからない出来事が発生すると、そのたびに一から考え始めなければなりませんでした。ブログを書き始めた半年後か1年後からは、自分の頭の中の何かがつながるようになって、仮説を立てる能力が格段に高まっていったのです(気のせいかもしれませんが)。
これは、「毎朝静かに考える」という習慣を手にしたためでしょう。僕の場合はブログでしたが、人によってはマインドフルネスだったり、ウォーキングだったりするのかもしれません。ひとり、自分と向かい合う時間。これが僕には必要だったのだとわかりました。
そして、習慣化すること。ブログを始めて1年もすると、もうやめられなくなってしまいます。1日でも欠けてしまうことがあると、ものすごく後悔することになるのではないか・・・。そう思って、風邪の日も二日酔いの日も書き続けました。更新の時間にはバラツキがあったり、どうしても電波がなく(離島などの場合)、更新のみ1日ずれたことはありました。そうした例外を除き、12年間続けることができた。まあ、三日坊主になることの多い僕にとっては、ちょっとした成功体験といえますね。
さすがに12年続くと、次の12年を目指すことになるでしょう。今度は自分のためではなく、誰かの役に立つ中身に変えていこうと思っています。役に立つと同時に、おもしろい文章になるかどうか? このあたりが次なるチャレンジといえます。
これまで長い文章を忍耐強く読んでいただいた方々に感謝申し上げます。できましたら、ブログ引っ越し後もご覧いただければ幸いです。移転先は明日お知らせします。
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縦書きか横書きか
http://sogopt.exblog.jp/29175736/
2018-01-08T07:12:00+09:00
2018-01-08T07:12:55+09:00
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昨日本を読んでいて感じたこと。それは「単行本はやはり縦書きがいいなぁ」ということでした。技術書とか料理本といった、横書きのほうが伝わりやすい本もありますが、長い文章を読ませるにはやはり縦書きのほうがいい。横書きで長い文章を読んでいくと、目が疲れてしまうのです。日本語の文章の場合、目は横移動より縦移動のほうが疲れにくい。僕はそう思っています。
インターネット時代に今、横書きのほうが読みやすい・・・という人も増えているに違いありません。昨日読んだ本などは、横書きにする必然性がない本でした。では、なぜ横書きだったのか? 「学生向けに書かれた本」だったのです。読者はデジタルネイティブな人たちだから、横書きがいいだろう・・・と著者、編集者が考えたのでしょう。
世の中、次第に横書きが増えていき、縦書きは廃れていってしまうのか? そんなはずはありませんね。小説もノンフィクションもビジネス書も、圧倒的多数の本は縦書き。英数字が多用される本の場合は、表記しやすいという理由で横書きの本が多い。要は、読みやすいかどうか、伝えやすいかどうかで縦横を選択すればよいのです。
一般に、単行本一冊に収められている文字数は10万~18万字(200~300ページの場合)。これだけの文字数を読むのですから、本の作り手は読みやすさにこだわらなければなりません。
フォント、字間、行間はもちろんのこと、ノド、小口、天地のスペースをどのくらいとるのかも重要になってきます。ページを開いたとき、本の綴じてあるところを「ノド」、外側の両端を「小口」といいます。
ノドのスペースが不足していると、ページを思い切り開かねばならず、読みにくい本になってしまいます。小口よりもノドに十分な余白をとるべき。自費出版物の中には、ごく稀ですが、文字がノドに埋没しそうになっていて読みにくいものがあります。
縦か横かの話に戻ると、去年、僕はおもしろい事実に気づきました。今さら・・・という気づきではありますが、僕は原稿を書く際、横書きで書くことが多かったのです。自分の書いた文章は印刷時には縦書きに変換されるのに、原稿を書く際は、当たり前のように横書きで書いていた。今考えると実に不思議です。
なぜなんだろう? パソコンとはそういうものだという思い込みがあったのかもしれません。少し遠い過去にさかのぼって考えていくと、ワープロ時代、僕は縦書きで原稿を書いていたことを思い出しました。1990年代前半からパソコンを使うようになり(Windows3.1)、なぜか横書きになった。縦でも横でも構わない・・・。当時は若かったということでしょうか。どちらでも違和感なく使うことができた。
以来、当たり前のようにずっと横書きで原稿を書いていました。ただ、スロウ編集部内を見ると、歴代編集者の何人かが縦書きで原稿を書いているのです。実際、僕も何度か試してみたことがあります。漢字変換がちょっとやりにくいというのが正直な感想。
しかし、昨年本を執筆するにあたって、改めて縦書きにチャレンジすると、驚くほど書きやすかったのです。漢字変換も慣れるとまったく問題なし。それ以上に、ワープロソフトは縦で書くものだと確信するようになりました。
パソコンの画面は横長になっていて、横書きだとデッドスペースができてしまうもの。縦書きに切り替えると実に有効に画面を使うことができるのです。僕の執筆した文庫本の1行の文字数は34字。縦書きにすると、34字×40行が楽に画面に収まる。これは書いていて心地よい。どうしてこれまで縦書きにしなかったのだろう・・・。これからは断然、一太郎+縦書きですね。
ちなみに、先ほど1冊の単行本の文字数は10~18万字と書きましたが、おそらくこれから本の文字数は減少していくことになるでしょう。僕の書いた本は2冊とも6万5千字程度。写真を入れずに文字だけの本にしたなら、きっと8万字くらいになったでしょう。
けれども、今の時代、文字だけびっしりという本を読む人は少ない。ある程度は図版、写真が必要です。1ページに収める文字数も、昔に比べてずいぶん減っているような気がします。文字が大きくなった、あるいは行間が広くなっているはずです。昨日読んだ本はB6変型。当然文庫本より大きな本ではありましたが、4万字に満たなかったのではないかと思います。その証拠に、僕は1時間程度で読み終えてしまいました。
どのジャンルの本であっても、くどくどと同じようなことが書かれている本は読まれなくなっていく。同じ中身であれば、文章は短いほうがいい。実用書、ビジネス書はそうした方向へ向かっていくことでしょう。僕の書く文章もできるだけくどくならないよう、気をつけなければなりません。
そんな理由から・・・ではありませんが、近日中に僕のブログはリニューアルすることとなります。今までよりも読みやすくなる予定です(縦書きになるわけではありません)。
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読みやすいかどうか
http://sogopt.exblog.jp/29075635/
2018-01-02T06:46:00+09:00
2018-01-02T06:46:59+09:00
2018-01-02T06:46:59+09:00
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昨日読んだ本の片方はいともあっさり読了してしまいました。A5サイズ、120ページほど。軽くて薄い。文字数でいうと5万字に満たないのではないかと思います。これなら1時間半程度で読み終える。中身もちょっと薄いように感じましたが、1冊の本からひとつのメッセージを受け止めることができれば読んだ価値がある。たぶん、僕が求めているのはこうした本ではないかと思っています。
僕は本に対して読みやすさを求めています。読みやすさを優先するあまり中身が薄すぎるのは問題ですが、中身が濃すぎて読みにくくなるようではいけない。難しい中身であっても、読みやすく書き表すことが著者や編集者の務めではないかと思います。読者の知的レベルを試すような書き方をすべきではない。
まあ、僕は自分の知的レベルと照らし合わせながら本を選んでいるため、正直言うと読む気になる本が限定されてしまいます。必要があって、「ちょっとしんどいな・・・」と思う本も読むようにはしています。けれども、本当は読みながらわくわくする本、ページをめくらずにはおられない本を求めているのです。
手前味噌ですが、雑誌スロウの場合は割合いい線行っているのではないかと思います。大体僕の知的レベルに合っているというべきなのでしょうか?
このくらいのわかりやすい文章表現を用いて、ビジネス書を書き表すことはできないものか? そう考えて昨年発刊したのが「クナウこぞう文庫」です。
僕の文章はあまり褒められたものではありません。細かいところを見ると、欠陥をいくつも発見することができるでしょう。同じ表現が何度も出てきたり、文章の流れが悪かったり、唐突に話題が変わったりすることもある。それは僕の頭の構造がそのようになっているためであって、努力してもなかなか治るものではありません。
ただ、幸いなことに、僕の場合はボキャブラリーが豊富なほうではない。自分の頭の中にある辞書には、難解な言葉が載っていない。したがって、比較的平易な言葉で書き進めることができる。これは短所のようでもありますが、僕にとってはこれでよいと思っています。
パソコンで原稿を書き進めていくと、ふだんなら使わない漢字に変換されることがあるものです。「ありがとうございます」で十分伝わるのに「有り難う御座います」と書くこともできる。手書きなら、このようには書かないと思います。日本人がキーボードを使って文章を作成するようになってから、漢字と仮名のバランスが変になってしまった人が案外多い。
自分の書けない漢字を多用する。あるいはちゃんと意味をわかっていないのに自分の文章に使ってしまう。そうした文章を書いているうちに、自分の文章が自分のものではなくなってしまう・・・。そんな傾向が一部にはあるような気がしています。
スロウ編集部内では「漢字で表すか、ひらく(ひらがなにする)か」、ときどき議論されることがあります。これは一見小さな問題のように見えますが、ひらくかとじるかによって、雑誌の印象がずいぶん変わってしまうものです。編集部内では、一応統一表記のルールが定められています。ただ、これはあくまでも「一応」。厳格にルールを当てはめてしまうと、個人の持ち味が損なわれてしまうことがある。ある程度は個人の裁量に任されており、ここがスロウという雑誌の特徴のひとつではないかと思います。
僕自身、どうしても今の統一表記にはなじめないところがあります。たぶん、みんな納得できるところとできないところがあるはず。たとえば、僕の場合「おいしい」と「美味しい」は別物であって、統一させられると違和感を覚えてしまいます。ただ、同じ雑誌で表記があまりにも不統一だと、読者にとっては読みにくいに違いない。できる限り統一表記に合わせる。だが、どうしても譲れない部分は自分の表記にさせてもらうことがあります。
「技術レベルが高いかどうか」「洗練されているかどうか」よりも、「その人らしいかどうか」のほうが大事なのではないかと僕は考えています。
単行本にしても、編集者の手が入りすぎてしまって、その人の人間味が伝わってこない本が多いような気がしています。逆に、矛盾や誤用が各所に見られても、人間的で魅力的な本というものもある。僕はビジネス書であっても、後者のタイプの本を選ぶことが多い。
本は自分の知性を豊かにするものだと思いますが、同時に自分の人間味を増すためのものでもあるわけです。知的すぎる本を読むことに疲れてしまうようなら、人間味たっぷりの本と併読することが望ましい。疲れない本。それでいて、自分の求める情報が盛り込まれている本。それがビジネス書の本来あるべき姿なのではなかろうか?
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純粋さとひたむきさ
http://sogopt.exblog.jp/28899784/
2017-12-21T05:37:00+09:00
2017-12-25T05:41:07+09:00
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やはり、何といっても純粋さが大切だ・・・。そう思わずにはおられない取材でした。「なりたい自分」を明確にし、純粋にそのことを思い、ひたむきに行動する。誰もが人生の一時期経験していることなのですが、ある年代になると不純な考えが混じったり、苦労や困難を避けるようになったりするようになるもの。
ある程度は避けられないのかもしれません。けれども、「純粋であり続けよう」とする自分の本心の存在を否定すべきではありません。自分の中にある本心は、いつでも純粋であろうとし、ひたむきに行動したいと思っている。私利私欲ではなく、何かもっと大きな目的のために自分の人生を使いたいと思っている。そう信じるほうが幸せな仕事人生を送ることができるのではないか? 僕はそう考えています。
昨日は仕事の原点を見るような取材でした。純粋に「いいものをつくろう」「いい仕事をしよう」という気持ちを持って取り組む。それが自分のためにも周囲の人たちのためにもなる。わかりきったことではあるのですが、その気持ちが薄れてしまうことがある。定期的に原点に戻ることのできる仕組みが、自分の人生の中に組み込まれていなければなりません。
僕の場合はどうか? 本当にそうなっているか、純粋な気持ちになっているのかと問われると、100%とは言い切れません。けれども、次期経営計画策定から経営発表大会までの期間と年末年始の1週間、年2回は純粋になろうとしています。自分の中に「私利私欲を超えた大きなもの」が存在することを確認しようとする。ちゃんと確認することができれば、1年間ひたむきに行動できるものです。この年2回のチャンスをぼんやり過ごしてしまうと、行動のほうもぼんやりとしたものになってしまいます。
子供時代から20代前半まで。人によっては年代に違いはあると思いますが、純粋かつひたむきな時期があるものです。次第に不純なものが混じっていき、思考が保守的になり、行動力が低下してしまうのはなぜなのでしょう? 単に楽をしたいから・・・というよりも、もっと別な理由があるのではないかと思います。
たぶんひとつの理由としては「心配事が増えるから」だと僕は考えています。心配事は子供の頃から持っているのが普通。大人と違うのは心配事の数、そして複雑かどうかといったところ。僕の子供の頃の心配事は「心配してもどうにもならないもの」や「取るに足らない心配事」が大半でした。たとえば、「人は死んだらどうなるのか?」「ベトナム戦争はどうなるのか?」といった心配事。重要ではありますが、自分の手ではどうにもならない問題。
大人になると、自分の手で解決せねばならない問題や自分の実生活に多大な影響を及ぼす問題が増えていきます。
つまり、問題解決のために使われる時間が長くなり、純粋かつひたむきに人生ビジョンに向かっていく・・・という本来のあるべき姿になりきることができない。そう思ってしまうことがあります。
管理職やチームのリーダーであれば、自分の問題ばかりでなく、メンバーそれぞれの抱える問題についても考えることになる。これはやむを得ないことであり、そうした問題解決も自分の使命のひとつ、人生ビジョンに到達するためにクリアすべき課題のひとつと捉えるべきでしょう。したがって、そのことを理由に不純さや行動不足を正当化することはできません。
本当に素晴らしい人生を歩んでいる人を見ると、年齢や経験を重ねるごとに純粋さの質が高まっていると感じることがあります。
純粋さの質とは何か? 人生初期の純粋さは「自分のため」「家族のため」といったところから出発しているのではないかと思います。それが人生経験とともに変わっていく。ここが仕事のおもしろいところです。
自分のためではあるのだけれど、仲間のため、地域のため、もっと広く世の中のため・・・というふうに広がっていく。自分の知らない人のために自分の持つ能力や技術を惜しみなく使うことができる。そんな仕事の仕方を当たり前のように行っている人を見ると、そこに純粋さを発見することができる。おそらく、それは仕事人生の理想形のひとつなのではないかと思います。
そうした魅力的な人たちから刺激を受けながら、「純粋・ひたむきな自分」というものを再度確立しなければなりません。
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ナビ任せにしない
http://sogopt.exblog.jp/28871908/
2017-12-15T06:32:00+09:00
2017-12-15T06:32:12+09:00
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というわけで、ついに完成しました。クナウこぞう文庫第2弾「激訳・キャリアデザイン」。3冊目こそ、道内在住のどなたかの本を出したいと思っているのですが、次も僕の本になるかもしれません。次作のテーマもスケジュールも決まっていますから・・・。
本の中で強調していることのひとつに、「自分の頭で考える」があります。
カーナビの指示通りに走ると、思わぬ遠回りをしてしまうことってありますよね。多くの人が経験していることではないかと思います。それなのに、カーナビで機械的に選ばれたルートを、考えることなしに選択してしまうことがあります。僕も慣れない道を走るときはナビに頼りっきりになることがある。旅先であればそれでもよい。けれども、自分の人生をナビ任せにしてはいけないというのが本書のメッセージのひとつ。
ネットからの情報を鵜呑みにしたり、誰かから勧められた無難な選択肢に飛びついたり、外形的な情報だけで比較してみたり・・・。カーナビ的な進路の選択は危険なもの。自分の頭でよく考え、最後は直感で選択すべきでしょう。
自分で選ぶことをせぬまま年月がたってしまうと、自分の人生の中から「意味」が薄れていってしまうのではないかと思います。自分が何をしたいのかがわからなくなる。そうなると、仕事は単に「生活費を得るための手段」に過ぎなくなってしまいます。そういう仕事人生でよいのか、と学生や若手社員の人たちに問いたいと思って書き始めた本です。
もちろん、人生の中で何度かは他人の勧めによって重要な選択をすることもあるでしょう。頑固になることを奨励する本ではありません。誰かから勧められた道であっても、自分が本心から納得しているのであれば、もちろんOK。ですが、勧められたから断れない・・・といった優柔不断さから道を誤る人も多いのです。ここにちょっとした落とし穴がありますね。落とし穴に片足を突っ込もうとしている人を思いとどまらせたい。そんな思いもあって、ハイスピードで書いていきました。
とはいえ、本を書いてみてわかったのは「自分は何もわかっちゃいないな」ということでした。この感覚は、前作「激訳・経営指針成文化」でも味わったもの。何もわかっていないのに本を書いてよいのか? そんな疑問も湧いてきますが、本を書いたからこそ「わかっていないということがわかった」のだと思います。本当にわかるという状態は一生やってこないのではないかと思っています。
仕事も経営も謎だらけ。謎を解明するのが仕事のおもしろいところでもある。ひとつの謎がわかりかけると、別な謎が湧いてくる。そのようにして、次から次へと刺激的な出来事や問題が発生し、悩まぬ日はないわけです。悩むことを苦痛に感じてしまった人は、「ナビ通りに生きていこう・・・」と考えるようになっていく。ナビに従う人生は楽ですが、自分で自分の道を選択すると「苦しみ」と「楽しさ」の両方が得られるようになっていく。どちらが自分の人生にとって有意義なのか? ここを考えねばなりません。
「楽しさ」だけを選択しようと思っても、そうした願望がある程度叶うのは20代から30代前半にかけてでしょう。楽をした分、その後の苦しみが重くのしかかるのではないかと思います。20代からちゃんと苦しみや苦味を味わってきた人は、「チョコレート効果 CACAO 95%」を食べたときのように、苦味の中にあるわずかな甘味を楽しむことができる。それは砂糖たっぷりのチョコレートよりも深く楽しめるはず。
直感のレベルを上げることが人生の質を高めることにつながるような気がします。
直感で選択したつもりで、つい「楽な道を選んでしまう」ということはないでしょうか。「痛みを避けて快楽を得る」。フロイトは人間の行動原則をこう述べています。ですから、直感のレベルを上げるには「快楽」の質を高めねばなりません。
自分の成し遂げたい仕事(ライフワーク)は何なのか。ここを明確にし、人生ビジョンとして描くことができれば、間違いなく「快楽」の質が変わってくる。本の中では別な書き方をしましたが、こうしたメッセージを受け取ってほしいと思っています。
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校了目前
http://sogopt.exblog.jp/28802310/
2017-12-04T05:32:00+09:00
2017-12-04T05:32:27+09:00
2017-12-04T05:32:27+09:00
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校正しながらではありますが、改めて自分で書いた本一冊を一気に読み通しました。そこでわかったことは、「僕の文章はちょっと下手だな」ということでした。「ちょっと」と書きましたが、本当は「相当」かもしれません。本の書き手として見れば、「ずいぶん下手」というべきでしょう。
しかし、下手ではあるが読みにくくはない。僕の文章には、ここに救いがある。自分で自分を救ってどうするんだ・・・と言われそうですが、十分読む価値がある本だと思います。
さて、下手だと感じた部分はどこか? いろいろあるのですが、ひとつには「話が若干飛び飛びになっている」と思われるところ。自分の頭の中ではちゃんとつながってて、関係性のある事柄なのだけれど、読者にとっては「話が飛んだ」と思われるかもしれない・・・。そんな箇所がいくつもあるのです。
上手な書き手の場合は、ストーリーがなめらかに流れていく。僕の場合は、ときどき淀んだり、急流になったりする。流れたと思ったら、逆流して上流へ戻ってしまった、という箇所も発見されました。それもまたよし、と思ってもらえるかどうか? 気になります。
自分の心の中の動きにしたがって書き進めていくと、このような書き方になってしまうのです。理性的に書き進めようとしても、完全に理性的にはならないもの。また、理性的すぎる書き方では伝わる文章にはならない。自分の心の動きや抱えている矛盾。これらを表に出してこそ、文章なのだと思います。伝わるかどうかは、読み手が判断すること。ただ、自分としては伝わるように書き進めていった。だから、どうしても整合性のとれない部分ができてしまう。これは僕のような書き方をする人間には避けられないことでしょう。
理性と感性と感情。この3つのどこかに偏ってしまうと、伝わりにくい文章になる。僕はそう考えています。ビジネス文書の場合には理性的な文章が求められます。事実を伝えるだけであれば、感性も感情も必要ない。ただ、そこにメッセージが込められているのであれば、感性または感情を一部盛り込むことが重要となってくる。感情的な文章になってはいけませんが、感情が伝わるような文章表現が求められるのです。
このあたり、上手な書き手の場合は「行間を読ませる」ような書き方をすることでしょう。僕の文章の中にも、そうした箇所はあったと思います。けれども、僕の場合はまだまだ表現力不足ですね。ちょっとストレートすぎるかな・・・と思われる書き方もある。これはこれで本心なのですから、致し方ありません。
ビジネス書や自己啓発書を読むと、実にさまざまな文章表現が見られます。近年増えてきていると思われるのは、著者が強調したい部分がゴシック体になっていたり、文字が大きかったりすること。これは明確にメッセージを伝えるという点では有効ですね。あまりにも頻繁に登場すると、読みにくいと感じますが、適度に出てくる分にはわかりやすくてよいと思っています。
ただ、僕の場合はそういう書き方をすることはありません。どこが重要なポイントで、どの部分を一番伝えたいのか、自分では決めていないのです。
本全体としてのメッセージはもちろんあります。「仕事とは何なのかちゃんと考えよう」とか「地域企業の価値」といったもの。しかし、文章に盛り込まれているさまざまなメッセージに優先順位があるわけではありません。読者の気になったところ。そこが重要なのだと思っています。
これは本書の中に出てくる河井寛次郎記念館を訪ねた際に気づいたことでもあります。さまざまな作品がある中、僕は「書」からインスピレーションを得たのです。通常、河井寛次郎といえば陶芸を思い浮かべることでしょう。でも、自分の興味は別なところにあった。
たぶん、本を読むときにも同じような心の動きがある。だから、解釈を固定化させるような書き方をするのはよそう・・・。僕はそう考えて、文章を書くようにしています。
写真の撮り方も同じですね。見る人がどのように解釈してもよい。そんな写真の撮り方(あるいは画質調整の仕方)です。
作者としてのメッセージはもちろんありますが、受け止め方は自由。僕の真意と真逆の受け止め方をされてしまうと困りますが、ある一定の幅の中でユニークな解釈をしてもらえればいいと考えています。今日か明日には校了します。
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研究者タイプの文章作法
http://sogopt.exblog.jp/28789249/
2017-12-02T06:51:00+09:00
2017-12-02T06:51:24+09:00
2017-12-02T06:51:24+09:00
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今月出版予定の「激訳・キャリアデザイン」ですが、ようやくゴールが見えてきました。
ずいぶん難航しました。途中までは自分でも驚くほどいいペースで進んでいたのですが・・・。
よく考えてみると、ちょっとした落とし穴にはまっていました。楽をすると、後で苦しい思いをする。原稿を書く際、いつも感じていること。自分にとって楽な進め方、執筆の仕方をしてしまったのかもしれません。前回「激訳・経営指針成文化」のときと、執筆の進め方が違っていたのです。
エニアグラムでいえば、僕は「研究者」(タイプ5)。自分にとって楽な書き方をすると、理屈っぽい文章になりやすい。ここが強みとなることもあるのですが、文章表現としては好ましくない。
エニアグラムでは、「研究者」にストレスがかかると、「楽天家」(タイプ7)へ向かうとされています。確かに当たっているような気がします。心理的に追い詰められている状態のとき、僕はついオヤジギャグ的な文章を書くことがあるのです。文章表現上はエビデンスのあるオヤジギャグというのが、僕の文章作成技術のひとつ。
これとは逆に、さほどストレスのかかっていない状態で書き進むこともあります。調子のいいときには「統率者」(タイプ8)に向かっていく。確かCCL研修の中でそう学びました。自説を強く主張するような書き方になりやすい。
で、あるとき気づいたのです。原稿執筆に限れば、僕は「調子のいいときほど文章表現上問題が多く、調子の悪いとき、ストレスのかかっているときほどいい文章を書く傾向がある」。どうやら、そのような宿命(?)を背負っているような気がするのです。
今回の「激訳・キャリアデザイン」の場合、ほぼ毎日1000~1500字というペースで書き進めていきました。僕にしては計画通り、順調そのものでした。これが意外にも落とし穴でした。
計画通りに行かない。そしてギリギリ感を味わう。ここに僕の文章表現上の持ち味があるのではないか?
僕は少しだけ、エニアグラムの活用法を見落としていました。これまで、「ストレスがかかるのは悪いこと」と考えていたのです。けれども、ストレスを感じたり、調子が悪いという状況のときほど、味のある文章が生まれやすい。僕がときどき使う「不自由感」を感じている状態。こうしたとき、苦し紛れに生み出されたダジャレがスパイスになって、味わいのある文章になるのではなかろうか? まだ、解明されてはいませんが、今のところそんなふうに理解しています。
僕のこれまでの人生を振り返ってみても、調子のいいときに悪い種を蒔き、調子の悪いときにいい仕事をしている・・・といった傾向が読み取れるような気がします。人生年表をもっと丹念に作成すれば、いくつも事例を発見することができそうです。
「いいときに悪い種を蒔く」というのは、どのタイプの人にも当てはまります。自信過剰になったり、油断が生じたり・・・。気をつけねばなりませんね。
僕のちょっとした発見は、調子の悪いときに何かユニークなものが生まれるということ。これはエニアグラムとは関係ないのかもしれませんが、僕の人生にずっとまとわりついている。したがって、僕の調子が上がりすぎないよう、適度に落としてくれる現象または人が存在します。ここがおもしろいところ。僕の人生、とりわけ仕事人生は、調子が上がりすぎないことによって、健全な方向へ向かっている。そう解釈しています。
ここで松下幸之助の言葉を引用するのは畏れ多いのですが、あえて記すことにします。
「自分は病弱だったから、すべて人に任せました。結果的にはそれで人が育ち、事業が成功しました。病弱だったのは不運でしたが、結果的にはそれが幸運でした」
マイナスをプラスに転化させる。松下幸之助のような偉人だけではなく、小さな転化であれば、誰にでもできるはず。むしろ、気をつけるべきは、好調時の心のあり方なのかもしれません。
今回、学生や若手社員に向けて本を執筆しましたが、ちょっと押しつけがましい部分があったのではないかと反省しています。目立つ箇所はできるだけ削除、修正しました。
書きながら、32年前の新入社員時代のことを何度も思い出していました。当時の上司の複雑な表情。僕の人生態度についてはっきり指摘したかったのだけれど、どう伝えるべきか躊躇している・・・という表情。その理由が今ならわかります。
月曜校了予定。日曜日に最後の校正作業を行います。
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曖昧な記憶と謎
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2017-11-30T07:07:00+09:00
2017-11-30T07:07:30+09:00
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昨日はブラックホールのようなものに引き寄せられてしまいました。一瞬、飲み過ぎたか・・・と思いましたが、ずっと熱燗だったので救われました。今日も忘年会。飲むまいと決めています。
それにしてもおもしろい話がずいぶんたくさん出てきたような気がします。僕はその大半を覚えていない。ただ、脳のどこかには保存されているはず。そうした引き出すことのできない記憶が山のようにあるのでしょう。
存在すら証明できない「記憶のようなもの」が膨大にあり、ちゃんと覚えている記憶のほうはほんのわずか。僕は並外れて忘却力が強化されている人間ですが、おおむねみんなそんな感じではないでしょうか? 「曖昧な記憶」と「忘れていること」、そして「忘れたことすら忘れていること」。これらが大半を占めています。
僕の考えでは、忘れてしまっていることがたくさんあるほうが、豊かなイメージ力や発想力につながるのではないかと思っています。現実の仕事や生活においては、記憶力抜群であるほうが困ることが少ない。僕の場合、起きている時間の大半は「困って」います。最大の理由は「覚えていたいのに忘れてしまう」ことによるもの。本当は外付けハードディスクのような外部記憶装置を求めています。
ただ、写真を撮るときには忘却力がプラスに作用することが多い。なぜなら、目に飛び込んでくる風景がいつも新鮮に感じられるからです。撮影にもっとも好ましいのは、目の前の風景を見て、「その昔、この風景を見たような気がする・・・」と感じること。曖昧な記憶をたぐり寄せようと試みる。そして、シャッターを押す。たぶん、そんなときにいい写真が撮れるのではないかと思っています。
写真以外の仕事においても、同じことが当てはまるのではなかろうか? 原稿を書くとき、頭の中が曖昧なままでは筆を進めることはできません(もちろん筆は使いませんが)。写真の場合は、シャッターを押せば、カメラが何らかの映像を記録してくれる。原稿執筆の場合、意味の通じる文章にせねばならず、「曖昧な記憶」と「確かな情報」を組み合わせて書き進めていく。
文章を書く目的によっては、「確かな情報」100%でなければならないこともあります。ただ、僕がおもしろいと思うのは「曖昧な記憶」「不確かなイメージ」「矛盾した感情」といったものが垣間見える文章。これは文章に正確性を求めすぎる傾向にある人には、理解しがたいかもしれません。
雑誌スロウのおもしろさは、曖昧なものを内包しながら、全体としては確かな情報を伝えているというところにあるのではないでしょうか?
取材相手も書き手も、ちゃんとわかっているわけではない。迷いながら曖昧に話したことを曖昧に書き留め、そこから原稿執筆が始まります(そういう書き方をするのは僕だけかな?)。多くの場合、迷いながら曖昧に書き始めることになる・・・。
ところが、不思議なことに、書き進めるうちに何かと何かがつながってくるのです。曖昧なものと確かな情報がつながったり、曖昧なもの同士が化学反応を起こし、意味ある解釈が生まれたりする。そのようにして誕生した文章は、「確かな情報100%」という文章よりもはるかにおもしろい。
なぜなのか? それは、曖昧なもの、不確かなものには、想像の余地があるからに違いありません。
おもしろいものには謎があります。昨日一緒に飲んだ人たちには不思議な謎がたくさんある。たぶん、そのうちのいくつかは10年か20年たったら解明されることになるでしょう。時間の経過とともに自然に解明される謎もあれば、ずっと考え続けた結果明らかになる謎もある。文章を書く際には、「考え続ける」というプロセスが不可欠。簡単には解明できませんが、解明しようと努力し、一歩でも近づいた状態で文章を書き進めていくのです。
企業経営もだいたいそのようなものであると認識しています。多くの人が集まって会社組織をつくっていますから、謎はとてつもない分量になります。自分の会社のことをちゃんと知っている社長など、この世に存在しないのではないかと思います。
自社のことを知らない社長と、自社のことを知らない社員が集まって仕事をしている。ここに企業の悩ましいところとおもしろいところがある。当然、謎を解明しようと努力するわけですが、その努力はたいていの場合徒労に終わる。ただ、そんな作業に没頭していると、砂や泥に混じって砂金が発見されることもあります。
そういう楽しみがあるから会社勤めはやめられないのでしょう。我が社は特に資源豊富な会社ではないかと思っています。
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ようやく入稿
http://sogopt.exblog.jp/28739940/
2017-11-27T01:22:00+09:00
2017-11-27T01:22:04+09:00
2017-11-27T01:22:04+09:00
sogopt
写真
「激訳・キャリアデザイン」、途中まで極めて快調なペースだったため、すっかり油断してしまいました。写真と図版に難航。日頃から社内のスナップ写真を撮っておくべきだと反省。図版のほうも講演資料を加工して、ストックを増やしておく必要がある。日常のちょっとした準備が大切ですね。
とはいえ、いい感じでまとまりました。部分的にまどろっこしいと思う部分はあるものの、全体としてはこれでよさそうな気がします。
この本を書く原動力となったのは、学生たちの過度なまでの大企業志向、大都市志向を変えたいと思ったこと。大企業に入社して本当に幸せな仕事人生を送る人も大勢いると思います。けれども、そうではない人もたくさんいる。その最大の理由は、自分が本当に望んでいる仕事の仕方と実際の仕事とのギャップ。あるいは、自分の望んでいない勤務地に暮らすこと。理由は他にもさまざまあることでしょう。
いずれにせよ、大企業=いい会社と思い込み、無理矢理入社した会社に自分を合わせようとした結果、不本意な仕事人生を送る・・・という人が少なくないと思うのです。これは僕の東京時代15年での観察結果。近年の事情を深く知っているわけではありません。
学生には、できるだけ先入観を持たず、もっと幅広く世の中を見てほしいと思っています。「有名である」というのはひとつの安心感かもしれません。けれども、有名ではない企業、非上場企業、中小企業の中に、やり甲斐があり、ユニークな仕事をしている企業がたくさんある。自分の才能を存分に伸ばすことができ、社会に役立っている会社があることを知ってもらいたいのです。
そして何より強調したいのは、地方都市や過疎地で働くことの意外なおもしろさ。すべての町とは言いませんが、大都市とは違った刺激や可能性に満ちた場所があることに気づいてもらいたい。特に北海道にはそうした場所が強烈なまでに存在します。どの町とは言いませんが・・・。
一部、感度の高い(または豊かな感性を持った)人が地方に活躍の場を求めつつあります。「働くこと」と「暮らすこと」を同じくらいの比重で考えている人。仕事=生き方と捉えると、「どこで働くのか」「どんな人に囲まれて働くのか」「仕事がどのように自分の暮らしを豊かにするのか」・・・といったことに無関心ではいられません。
つまり、「どの会社に勤めるのか」が最重要課題ではない。そう考える学生が増えていきそうな予感がします。すでに、UIJターンを考えている人はそうした心境になっていると思います。会社よりも場所(または環境)のほうが重要なのです。
そう考えていくと、地域企業にとっての重要課題は、「地域の魅力をいかに高めるか?」ということになっていきます。自社の魅力を磨くのは当然。しかし、地域の魅力が乏しければ、自社が選ばれる可能性は低下してしまう。自社の目先の損得ではなく、地域づくりに熱心に取り組む企業が増えているように感じます。感度の高いエリアには、感度の高い経営者や地域のキーパーソンがいるものです。
業種、職種を問わず、あらゆる人が地域おこしに関わっていくようになる・・・。そんなイメージを持つようになりました。そこで重要となるのは、「企業」という枠組みだけではなく、「個人」または「社外のネットワーク」による活動。非企業の取り組みが民間企業の活動の限界を超え、地域の魅力づくりに貢献することとなるのではなかろうか?
経済活動として成立しにくい部分をある一定程度カバーし、地域の魅力が高まることによって、企業の経済活動にもプラスに作用する・・・。そううまくいくかどうかわかりませんが、一部にそうした動きが見られ、注目しているところです。
僕としては、やる気と能力を持った学生が地域企業に大勢入社し、会社を変え、地域を変えていくことを望んでいます。日本が本当に住みやすく活力ある国であり続けるためには、地方の自然、文化、歴史が守られることと、精神的、経済的に豊かであることが条件となってきます。学生や伸び盛りの若手社員の意識の変化に期待したいところです。
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意味ある「ぼんやり」
http://sogopt.exblog.jp/28707364/
2017-11-24T06:12:00+09:00
2017-11-24T06:12:02+09:00
2017-11-24T06:12:02+09:00
sogopt
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昨日はぼんやりしている時間が長かった。買い物をしてもテレビを見ても、ぼんやりしていたと思います。こんなときは、脳のどこかの部位が活発に活動しているのではないかと思うようにしています。疲労困憊していたわけではなく、ただぼんやりしていたのですから。たぶん、今週末には頭が冴え、仕事が前に進むことになるのでしょう。
原稿を書くにも、写真を撮るにも、いつも一定のペースで仕事をしているわけではありません。みんなそうだと思いますが、好不調の波がある。この波が激しすぎると不調時にひどく苦しむこととなる。ただ、不調の理由がわかれば無用な苦しみからは逃れられる。不調のときは自分の知らないところで、脳が活発に活動していると考えればよい。不調から好調に転じるパターンがわかってれば、どうということはないのです。
気をつけねばならないのは、不調時が雑誌の原稿執筆期間と重ならないよう調整すること。不調時期を前倒しするとなど工夫しなければなりません。好調時期を意図的に設けることは不可能ですが、不調の時期はある程度操作することができる。このあたり、編集者の人たちはどのようにしているのでしょう?
さて、ぼんやりした状態のとき、脳内ではどんなことが行われているのか? 僕の解釈では、濁り酒のオリが沈殿していくようなイメージ。静かに瓶を立てておくと、上澄みとオリの層に分かれていきます。お酒の場合はやさしく振って両者を均一に混ぜてから注ぐわけですが、原稿執筆の場合は上澄みだけを抽出する。頭の中をできるだけ澄んだ状態にしておきたいと思うのです。
たまに、逆の行動をすることもあります。上澄みだけではおもしろくないと思ったとき。あるいは、原稿を書きながら行き詰まるものを感じ、変化を求めているとき。こんなときは頭を揺すったり、百会(頭頂部のツボ)をマッサージしてみたりします。体を動かすか口を動かす(何かを食べる)。そうしてから静かに待って、再度オリが沈殿するのを待つ。
僕の場合、けっこう面倒な原稿の書き方をしていますね。もっとシステマチックに書くことができるとよいのですが・・・。
好調時にはタイピングの速度の限界にチャレンジすることがあります。ただ、パソコンで原稿を書くようになってから「一気に入力する」という書き方ができなくなりました。一太郎の場合、100字以上入力できず、漢字の変換作業をせねばなりません。この点だけはちょっと不便ですね。
20年くらい前に使っていたワープロでは、確か300~400字くらい一気に入力して、その後まとめて漢字変換するといった書き方をしていました。そんなワープロソフトがあればすごく助かります。アイデアが忘却の彼方に遠ざかってしまう前に、できれば全部打ち込んでおきたい。そんなニーズを持つ人も多いのではないかと思います。
僕のタイピング能力は1991年頃がピークでした。自分でもビックリするほど速かった。部分的に自己流のところがあるため、本当に速い人には敵いませんが、浮かんでくる文章を書き留めるには十分な速さでした。
ところが、この年ある事故が起こったのです。初めての海外社員旅行(東京時代の会社)でバリへ行き、到着したのが深夜。バリは熱く、眠る前にシャワーを浴びよう・・・となったのですが、石鹸がひとつしかない。寝不足と高温多湿の中でぼんやりしていた僕は、「カッターで半分に切ろう・・・」と考え、石鹸を切るつもりが手のひらを切ってしまったのです。大騒ぎとなり、病院(というより、ちょっと怪しげな診療所)へ連れて行かれ、その場で縫うこととなりました。英語で「ソーイング」と言っていたのを妙にリアルに覚えています。翌朝から、包帯で手をぐるぐる巻きにした状態でバリ観光を楽しんだ。刺激的な第1回社員旅行でした。
それはともかく、僕のタイピング能力という点では打撃を受けました。帰国後、抜糸してからも小指にしびれが残ったのです。今も軽くしびれている。このため、左手小指を使う「A」のキーをうまく打てないことがある。ピーク時の2/3くらいのスピードに落ちてしまいました。
話題が少し逸れてしまったようです。僕の場合、ぼんやりしている時間がけっこう長い。オリが沈殿するのを待っている「ぼんやり」であれば問題ないのですが、疲労や高温多湿時に起こる「ぼんやり」には注意せねばなりません。何か問題を起こすときは、たいてい後者の「ぼんやり」。今は少し用心深くなっていて、「刃物は扱わない」ことと「重要な意思決定はしない」ようにしています。
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過去の微細な出来事
http://sogopt.exblog.jp/28694407/
2017-11-23T08:00:00+09:00
2017-11-23T08:00:19+09:00
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sogopt
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5時15分帰宅。食事会の準備。僕は味の微調整やグラスを並べる程度。すべてM氏の手によるもの。6時過ぎ、クナウハウスの住人が集まってきた。6時半からI氏の誕生会。おもしろい話が飛び交っていたが、断片的にしか覚えていない。昼間、記憶細胞の大半を使い果たしてしまったようだ。「満月」と「Tシャツ」がキーワードだったと思う。9時40分終了。10時半就寝。
そういえば、誰かの日報の中に「回想法による認知症予防」についての話がありました。過去を語る。確かに認知症予防によさそうです。話の中身にもよりますが、過去の話は本人のためだけではなく、次の世代の人たちのためにもなる。自分はどこで生まれ、どのように育ち、どんな経緯を経て今に至っているのか。親子であっても、ちゃんと情報が伝わるとは限りません。埋もれてしまって、もう取り出すことのできない歴史がたくさんあるものです。
昨日取材させていただいた方は、膨大な記憶があるばかりではなく、それぞれの出来事が意味づけされていて、自身の思想・哲学体系の中に組み込まれている・・・。そんな話を直接聴くことができるのは、取材冥利に尽きるといってよいでしょう。僕とS氏はこれを来年、形にすることとなります。かなり重量感のある仕事。やり甲斐がありますね。
スロウの取材でも、その人の半生を聴く機会が多いものです。どの話も非常に興味深い。特におもしろいと思うのは、過去の出来事が今の自分にどう影響しているのか、本人の解釈についての話を聴くことです。
若い人の場合は比較的ストレートな解釈であることが多いような気がします。出来事の大小、人間関係、起こったタイミング・・・。これらと現在との関係性が語られます。若い人の中にもユニークな人生を歩み、僕に強い影響を与えるような人がいます。老若問わず、異なる世代の人からさまざまな影響を受けることで、人生が豊かなものになっていきます。過去と現在がどのようにつながっていて、この先、どのような方向へ向かっていくのか? ここが重要。ストーリーの魅力度が記事の魅力度に影響を及ぼす。また、卓越した編集者であれば、ストーリーに書き手の解釈を加え、読み手の解釈やイメージの幅を広げることもあります。
人生経験を積み重ねてきた方の場合は、長期熟成された味わい深い話をされることが多い。人間、不思議なもので、大きな出来事ばかりではなく、取るに足らないような微細な出来事が妙に頭の中に残っていることがあるものです。
僕の頭の中にはそうした微細な出来事が無数に詰まっている。大事なことは忘れてしまうのに、どうでもよいことをたくさん覚えています。
ただ、これは僕だけの現象ではなく、僕よりもずっと上の世代の方々にもあるようです。ものすごく小さな出来事について、語られることがあります。たとえば、前回の取材では「白菜を売りに来たおばさんから、お金がなくて白菜を買えなかった・・・」という話が出てきました。
話の本筋とはまったく関係がなく、何10年も前の小さな出来事。数日後に忘れてしまっても、何の支障もないような話に思えます。けれども、その出来事の記憶を何10年も持ち続けているということは、今の自分と何らかの関係があるということではなかろうか? 自分の哲学や生き方に深い部分で関係している。そうイメージすると、がぜん興味深いエピソードのように思えてきます。
回想するだけではなく、誰かに話す、または文章にする。そんな活動をすることによって、自分の人生の意味が次第にわかってくるのではないかと思います。
社史の場合も、小さな出来事が重要な意味を持っていたと気づくことがあります。小さい出来事に足をすくわれることもありますし、小さなきっかけから社運が上がっていくこともある。自社の年表に掲載されないであろう、小さなエピソードにも注目していかねばなりません。
ちゃんと記録しておかねば・・・。いつもそう思ってはいるのですが、昨日も記念写真を撮るのを忘れてしまいました。僕は記憶力が極端にない人間なので、記録をしっかり残しておく必要があります。ただ、以前に比べると僕の記憶力は向上しています。たぶん、11年間ずっとブログを書き続けてきたことが要因でしょう。
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伝えると伝わる
http://sogopt.exblog.jp/28668688/
2017-11-22T06:22:00+09:00
2017-11-22T06:22:12+09:00
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sogopt
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「伝える」と「伝わる」は別物・・・。そんな本を先月読んだような気がします。この種の本は何冊も読んでいます。雑誌づくりの仕事をしているといつも感じること。そして、経営者の立場から社内にメッセージを伝えようとする際、いつも意識することでもあります。
意識してもなかなか伝わらない。僕にとって「伝える」と「伝わる」との間にはずいぶん距離がある。まったく意図しなかったことが伝わってしまうこともあるのです。
ですから、話し言葉には細心の注意を払わなければならない。そういつも注意しています。細心の注意を払うと、用心深くなりますから、話すタイミングが若干遅れる。この「若干」が数秒レベルであればよいのですが、数日だったり、数ヵ月だったり、ときには数年だったりする。数年を若干とは言いにくい。しかし、人類の長い歴史の中では一瞬の出来事に過ぎない・・・などとこじつけながら、数年遅れでメッセージを伝えることもあります。
通常、タイミングが遅くなりすぎると伝える意味が薄れてしまいます。したがって、僕の場合、話し言葉よりも文章のほうに比重を置く傾向にあります。特にここ数年はその傾向が強い。この文章を読むのは大変だろうな・・・。そう思いながらも、ちょっと長めのメッセージを書き表しています。
僕の想像では読む人と読まない人とハッキリ分かれているはず。全社員に伝えたいメッセージですが、「まずは読んでくれる人にしっかり伝えたい」というのが僕の考え方。文章を読むのがおっくうだという人には、ダイジェスト版のような形で朝礼等の場を使って伝えるようにしています。
他社のことはよくわかりませんが、僕と同じように考えている経営者も多いのではないかと思います。メッセージを全社員に毎日メール配信している社長もいます。僕と同じようにブログを書く人も、フェイスブックのグループを使って伝えている人もいるでしょう。文章で伝える。今は映像の時代ではありますが、経営者からのメッセージは言葉でなければ伝わらない。話し言葉+文章。そして、できれば映像を使ってインパクトのある伝え方をする。そんな工夫が必要です。
僕は経営力の構成要素の中で、文章力がひとつの鍵を握るのではないかと考えています。必須というわけではありません。どうしても不得手な人の場合はゴーストライターを使うのもよいでしょう。ただ、その場合は自分の伝えたいメッセージと誤差があることを知っておかねばなりません。微妙なニュアンスの違い。これはほんのわずかな印刷の版ズレのように、妙に気になってしまうものです。
メッセージを伝えることが重要な業務となっている人は、文章力を磨く必要があるでしょう。編集者やライターだけ必要な技能というわけではありません。文章が上手か下手かはさほど問題ではない。自分の伝えたいメッセージを自分の文体で書き表すこと。それが重要なのではないかと思うのです。他人に任せてしまうと、他人の文体になりますから、読み手は違和感を覚えてしまうことになる。そうすると、正しいことが書かれていても十分に伝わらない。事実は伝わっても、真意は伝わりにくいのです。
語りかけるように書く。そんな話もどこかで出てきたような気がします。スロウ編集部の文章講座の中に出てきた話だったでしょうか? そんなふうに書くことができれば理想的ではあるのですが、実際には試行錯誤しながらたどたどしく書き進めることが多いのではないかと思います。
たどたどしくとも、自分の手で書き進め、何度も修正を繰り返す。そうするうちに、時間はかかっても自分の真意が込められて文章になっていくものです。日本語としてきちんと伝わるよう、最低限の文章力は身につけておかねばなりませんが、多少は変な文章表現が含まれていてもいい。そう思っています。
実際、僕の書く文章にも変な部分があります。スロウの場合、校正段階で「赤」が入るのですが、僕はそれをことごとく「イキ」に戻すことがあります(明らかな誤りの場合は別)。間違いではないが、ちょっと変。ここに書き手の個性が表れる。それをよしとするか、訂正すべきかは、編集方針によって判断が分かれます。
僕は事実を伝えることよりも、真意を伝えるような書き方のほうが、より「伝わる」のではないかと考えています。
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「働く」と「働かされる」
http://sogopt.exblog.jp/28623061/
2017-11-19T07:39:00+09:00
2017-11-19T07:39:51+09:00
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sogopt
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3日間の道北取材は意義深いものでした。ふだん考えていることを改めて深く考えることになりました。
生きることは食べること。と同時に、「生きることは働くこと」でもあります。よりよく生きようと思えば、よりよく働くことを考えねばならない。そのためには、「働かされる」ではなく、「自ら働く」という能動的なものである必要があります。外形的には同じように見える活動であっても、「働く」と「働かされる」とでは根本的に違う。自分の意思で選び取ったものなのかどうか? ここが大事なポイントですね。
会社勤めをしていると、この根本的なところがぐらつくことがあります。上司から、あるいは顧客から指示されて「働かされている」という感覚を持つようなケース。ほとんどの人がそんな気持ちになったことがあるのではないでしょうか。
我が社の場合、それに加えて「部下から指示される」というパターンも数多く見られますね。今回の取材の一部にも、部下からの取材指示があったようです。僕も、しょっちゅう指示されて撮影に行きます。現場の仕事においては上司も部下も存在しない。我が社の編集部はこの点、ちょっと変わっているな・・・と感じることがあります。
それはともかく、自分の仕事人生をよりよいものにしていくためには、「やらされ感」を取り除くことが第一歩ではないかと思います。これは簡単な人にとっては極めて簡単。けれども、やらされ感を捨て去ることのできない人は、最悪の場合、引退の日まで続くことになる。
やらされ感というものは、自分の意思で決め直すことで簡単に捨てることができます。指示・命令されて行う仕事であっても、「これは自分の仕事なのだ」と決断すればよいわけです。そうすると、興味や関心が湧いてくるし、自分の成長につながるものだと思えるようになってくる。
次のステップは、自分自身でアイデアを出し、「自分の企画を通す」ということです。自分の発案ですから、やらされ感を感じることは皆無でしょう。その代わり、自分の行動責任だけではなく、結果責任の一部を引き受ける覚悟も必要となる。アイデアがあるのに口に出さない人は、自分の発案が認められることに恐怖心を持っているからなのかもしれません。責任を持つこと。能動的に「働く」には、責任を回避しないことが大切です。
その上のステップとしては、使命感を感じながら、自分の人生目的につながる働き方をするということ。やらされ感の対極にある働き方。そんな仕事を僕自身望んでいますし、我が社の社員にも期待しています。
けれども、すべての人にそれを望むには無理があるのかもしれない・・・とも考えています。「仕事は好きでも嫌いでもなく、ただ家族を養うために働いている」という働き方。立派に自分の役割を果たしているのであれば、それも立派な仕事人生といえます。人生の充実感を仕事以外に求めるという人も、きっと多いのではないかと思います。
ただ、自社の成長・発展を考えると、使命感に燃える人、仕事を通じて自己実現しようとする人が活躍しなければなりません。
使命感100%という人は滅多にいないでしょう。使命感は50%くらいでもOK。「この仕事に限っては、命懸けで成果を創り出す」。そんな人を僕は求めています。すべてが「命懸け」だったら、あっという間に燃え尽きてしまいますから、50%もあれば十分。
一部の仕事に対して「やらされ感」を感じている自分がいたとしても、罪悪感を覚える必要はありません。楽しい仕事と義務的な仕事が混在している。それが会社員の仕事。そして、案外義務的に行っている仕事の中に「自己成長の芽」が隠されていることがあるのです。このあたりが、会社に勤めることのメリットのひとつといえるでしょう。
立派な仕事人生を送っている人を見ると、やらされ感を持つでもなく、自らの意志でもなく、もっと自然な形で働いているように思えることがあります。世の中から本当に必要とされることをしている。そんなふうに僕の目には映る。そうした境地に達することができれば、この上なく幸せな仕事人生といえるのではないかと思います。
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日常と非日常と超日常
http://sogopt.exblog.jp/28602766/
2017-11-17T06:46:00+09:00
2017-11-17T06:46:25+09:00
2017-11-17T06:46:25+09:00
sogopt
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昨日の取材で僕が感じたのは、「日常の質を高める」ということでした。これは昨日だけの話ではなく、ここ10数年考えていることでもあります。
たとえば、絶景を巡る旅であれば、「非日常」への期待といったものを感じて参加することでしょう。祭りやイベントも「非日常」を求めて行われるもの。人々がなぜ非日常を求めるのか? それはきっと日常に単調さを感じているからに違いありません。日常が十分に心地よく、しかも適度に刺激的なものを感じているのであれば、さほど非日常への欲求は高まらないはず。根っから祭り好きや好奇心旺盛な人は別ですが・・・。
そう考えると、人生の質を高めるには日常の質に意識を向ける必要があって、日常の質を高めるような活動に情熱を傾けるとよいのではないかという結論に至ります。自宅の庭に生えている植物を撮影する・・・といった小さな活動も日常の質を高めることにつながるでしょう。あるいは、多少値段は高くとも地元の店から地元の生産物を購入するというのも、質の向上につながると僕は考えています。地元のものと限定するのは視野が狭いかな? たとえば、フェアトレード商品を優先的に購入するというのもひとつの方法といえます。
日常の質が高まっていくと、非日常的な活動のテーマが変わっていくのではなかろうか? 旅のテーマも変わっていくような気がします。観光名所を訪ねる旅であっても、見るポイントが変わってきそうですね。「見る」「食べる」「遊ぶ」に比重が置かれているのか、それとも「体験する」「学ぶ」「創造する」といったところに目的があるのか。
旅の目的が多様化していくと、訪れる場所も大きく変わっていくことになるでしょう。観光地ではない場所を訪ねる人が増えていく。もうすでにそうした傾向が顕著になってきているのではないかと思います。同様に、これまでは観光客がやってこなかったような祭りやイベントに旅行客が参加するようになっていくことでしょう。そうなっていくと、何かおもしろい相乗効果が生まれてきそうな気がします。
その一方、日常の質的向上に対して情熱を燃やす人々は、超日常といったものを目指すことになるのではなかろうか? 他人からは非日常的に見える日常。まあ、「毎日が祭り」といった感じでしょうか。あるいは逆に、超単調に見える日常に向かっていく人もいるような気がします。単調さの中に豊かさやおもしろさを発見する能力。これも、人生を豊かなものにするための重要な能力ではないかと僕は思っています。
何が豊かか、何が日常で何が非日常か。まわりの人からはわからないものです。自分が情熱と好奇心を持って日々生きていくことができるのであれば、日常でも非日常でもどちらでもよいことであり、経済的にはともかく、精神的には十分豊かなのだといえるでしょう。
自分の身のまわりを注意深く観察すると、自分の好奇心を刺激するものや情熱を燃やす燃料となるようなものが数多く存在することに気づくはずです。すでに資源は十分にある。それを活用しているのか、気づかないだけなのか、それとも気づかないふりをしているのか? 3つのいずれかによって、人生の質が大きく変わっていく。気づかない人には気づくための観察力が必要ですし、気づかないふりをしている人には行動するための決断力が求められるでしょう。
僕は会社という場所は「資源の宝庫」だと思っています。一個人では得られないような巨大な鉱脈が眠っている。いつもそんなイメージを抱いています。
残念ながら僕も十分気づいているとはいえません。僕の気づかない資源を社内の誰かが掘り当ててくれる・・・。そんなこともたまにあります。掘り当てた資源は会社と個人をともに豊かにしてくれるもの。誰かが資源を掘り、それを使って誰かが生産し、誰かが販売する。資源が枯渇すると生産も販売もできなくなってしまいます。情熱と好奇心を持った人の存在が欠かせません。
日常の質を高め続け、非日常ではなく「超日常」という域に到達すると、我が社は大きく成長・発展していくのではなかろうか? 10年後の我が社のイメージが少し湧いてきました。
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記憶と歴史
http://sogopt.exblog.jp/28592599/
2017-11-16T06:09:00+09:00
2017-11-16T06:09:10+09:00
2017-11-16T06:09:10+09:00
sogopt
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僕は20代の頃までは過去の記憶をたどることに意味を感じておらず、関心の方向はもっぱら現在と未来にありました。意識が変化したのは20代の終わり頃。ファッションアイテムのタイアップ広告をつくるようになり、各ブランドの歴史を調べるようになりました。原稿を書きながら僕が感じたのは、魅力的な歴史の有無によるブランド価値の違い。これは「美しい社歴をつくりたい」という今の僕の考え方につながるものです。
歴史を捏造することは許されません。今の事業活動が「美しい」または「意味あるもの」でなければならない。そう考えています。長い歴史の中にはおそらく不本意な出来事や後悔するような過ちもるでしょう。しかし、全体としては美しく、意味あるストーリーであるべきだと思います。
20代の終わりから30代の終わりにかけて。約10年間、ファッションアイテムのタイアップ広告をつくる仕事が続きました。一時期、スニーカーバブル(?)のような時期があり、よくわからない新興ブランドの原稿を書くこともありました。ほとんど歴史がない。その上、どこに価値があるのかわからない・・・。たかだか1ページか2ページの記事なのに、すごく苦しんだ記憶があります。語るべき中身がないものについて語るのは大変。おかげで、想像力が強化されたような気がします。
それはともかく、今帯広で仕事をしながら感じていることがあります。それは、自分、自社、十勝、北海道の歴史的価値を掘り起こして「記録すること」。よく「北海道には歴史がない・・・」と言う人がいますが、歴史がないはずはありません。もともと人が住んでいたわけですし、人類誕生以前にもこの場所は存在していた。地形はずいぶん違っていたと思いますが・・・。
歴史がないのではなく、記録が乏しいだけに過ぎません。
全国の出版社の77%が東京都に集中しています。首都圏で80%強を占める。北海道の占める割合はわずか0.7%。大手出版社の大半は東京に本社がある。そう考えると、北海道の情報は現代においても極めて少ないといってよいのではなかろうか?
いや、そんなはずはない。インターネットの世の中になって、情報量は爆発的に増えている・・・と主張する人もいるでしょう。それは確かにその通りなのですが、その情報が「30年たっても残っているのかどうか」と考えると、少し怪しくなってくるのではないかと思います。
曖昧な記憶を頼りに、かつて見たことのあるページを開いてみると「404 Not Found」などと画面に表示されることがあります。現在の情報については圧倒的な量がある。けれども、インターネットは記録媒体としてはちょっと頼りない気がします。
印刷会社だから・・・というわけではありませんが、やはり重要な情報は紙に残すことが大事。今の時代は、紙とデジタルの両方が欠かせません。
我が社の社歴をしっかり記録しておこうと思って、10数年前に調べたことがありました。1954年の創業から1960年代までの記録がほとんど残っていない。紙媒体の記録が残っていないと、正直言ってまとめようがない。今は、何か痕跡のようなものはないか調べてみようと考えているところです。歴史学というよりも、考古学(?)のようなアプローチ法となりそうです。
個人レベルの歴史であれば、「その人の頭の中にしか存在しない」ということになるでしょう。残す必要はないと思う人も多いでしょうが、その一方では必要としている人もいるわけです。自分はどのような祖先を持ち、どのような親から生まれてきたのか? 知っているのと知らないとでは、人生の豊かさに何かしらの影響を及ぼすことになるのではないかと思います。
そしてまた、自分の子供時代、学生時代の記憶をよみがえらせることも大切だと考えるようになりました。たぶん、僕と同じ結論に至った人が多いに違いありません。SNSでつながりやすくなったという理由もありますが、同窓会活動は各地で活発になっています。
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